株式会社菅原工業

  • Profile

    菅原 渉 (すがわら わたる)さん

    株式会社菅原工業 代表取締役 専務

    ドラマ「北の国から」に憧れて、北海道の大学へ進学。卒業後は北海道の道路舗装工事部門を強みとする建設会社に勤務。道路舗装に関する技術から安全・品質管理について一通り身につけ、20代にて主任技術者を任される。6年勤務した後、実家の菅原工業に戻り、代表取締役専務の職につく。現職。

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菅原工業

創業は昭和40年。以来気仙沼の街に根ざし、水道工事を中心に事業を成長させてきた。土木の大規模工事を手がけるようになったのは、現在、代表取締役 専務である菅原さんが、家業を継ぐために戻ってきたときから。道路舗装工事部門を強みとする建設会社にて、20代で一級土木施工管理技士の資格を取得するほどのキャリアを積んでの挑戦だった。しかし当初から上手くは進まなかった。仕事を任せてもらえないのだ。「周りから二代目に何ができるというレッテルを貼られていたんです。悔しかったですけど、これが現実。だから歯を食いしばってでも、一つひとつの仕事を丁寧にやっていって、信頼してもらうしかなかった」それから1年半ほどの期間を費やし、少しずつだが仕事を任されるようになり、競争入札にも勝てるようになってきた。そんな時に、東日本大震災が起こった。沿岸部に位置する気仙沼の街は津波に流され、見るも無残な状態となった。宮城県内では石巻市に次いで、168万トンの瓦礫が出たという。土木工事という街づくりの根底にある事業を通じて、菅原工業は気仙沼の復興にどのように関わっていったのか。そして震災から復興のフェーズに差しかかろうとしている今、どのような事業展開を考えているのか。その胸中を聞いてみた。

菅原工業

「2階にいても津波が入ってきて。なんとか第一波をしのいだあと、壁を蹴り破って屋上へと逃げました。ほんとうにギリギリでした」震災前の菅原工業は、大川の川沿いに位置していたため、津波の影響を直接受けて全壊。残されたのは、ダンプカー1台だった。しかし幸いにも従業員は全員無事だった。「家族や従業員の安否確認ができてからすぐ、震災から3日後に市役所へと何かできることはないかと足を運びました。すると瓦礫をかき分けて道路をつくりたいから、瓦礫撤去の最前線へ行ってくれないかと声をかけられたのです」瓦礫で交通が分断されていると、救援物資も運べず、救助活動もままならない。「自分ところの会社のこれからも心配でしたが、まずは気仙沼の街をどうにかしないという気持ちが先行していました。こんなときこそ、土木工事を生業とする自分たちが頑張るべきだと、とにかく必死でした」最初の数ヶ月は自衛隊と協力しあって、24時間の交代体制で取り組んだ。その後安否確認が取れた企業とも協力し、約2年間瓦礫の撤去に携わった。「地元だけではなく、他の地域からもようやくたくさんの業者さんが入ってきてくれたのです。そのタイミングでうちは抜けて、災害復旧の道路のほうに移行していきました」

菅原工業

菅原工業の立て直しは決して順調ではなかった。震災があって、すべてを失った会社に残ったのは、多額の借金だった。「社長とはこのまま会社をやめるかどうかを話しましたね。するとお金のことはどうにかするから、頑張ろうと言うのです。潰れるにしても、やるだけやってからにしようと。それで結構踏ん切りはついたんですよ」菅原さんはそこで大きな決断をする。瓦礫を細かく分別してリサイクルにできる形にする環境機械を、東北でいち早く導入するよう気仙沼市に提案した。「もちろんリース代は高額なので不安はありました。でも今やるべきことを愚直にしていけば、お金は後でついてくると信じて進むことにしたのです」この機械の導入で瓦礫撤去の効率は加速する。以前菅原さんが勤めていた会社の協力会社もサポートにきてくれた。大きな力が、菅原さんの元に集まってきた。「ほんと嬉しかったですよ。自分の都合で退職したにも関わらず、困っているときに助けてもらえるなんて。人の縁、想いの力を感じました」
瓦礫の撤去作業の後、菅原工業の事業は災害復旧工事へと展開する。その中の仕事の一つが防波堤の建設。これだけの大惨事を引き起こした津波から街を守るための砦をつくる仕事。まずはここからスタートしないと、復興は進まない。しかし現実は反対の声も多かった。「海と生きると言っている気仙沼で、景観を崩してしまう防波堤をつくるのはいかがなものかと。実際にSNSで誹謗中傷される声を見ることもありました。結構つらかったですよね。街のことを、気仙沼のこれからのことを考えて仕事しているのに。でもね、自分たちは決して悪いことをやっている訳ではない。だから従業員のみんなには胸を張って仕事しよう、と話していましたよ」立派な防波堤ができましたよ、と話す菅原さん。その後は順調に気仙沼の街の事業を受注し、会社の経営も立て直すことができた。また地元を象徴する内湾地区の造成・道路工事にも、菅原工業は関わることができた。

東日本大震災が起こって6年。菅原工業は次のステージへと進出する。目指すは世界。行き先はインドネシアだ。きっかけは、もともと気仙沼と交流があったインドネシアから、研修生を受け入れたことからはじまる。「復興工事をしている中でどうしても人手が足りなくなり、漁業で交流のあったインドネシアから技能研修生を受け入れる事に決めました。その後、インドネシアのニーズとこちらのニーズがマッチする事にわかり、技能研修生が3年で習得した技術を活かすべく、インドネシアに展開する事を考えました」世界の72億人を相手にビジネスをしてみるにはどうしたらいいか。菅原さんの頭の中にいろんなアイデアが浮かび上がってくる。現在の構想は、インドネシアの現地法人と、そしてリサイクルアスファルトを開発する現地ゼネコンとのジョイントベンチャーの二社を設立する。インドネシアの国営機関と調整しながら、アスファルト合材の配合を決めたり、仕様をつくるまで調整は進んでいる。計画は順調だ。「気仙沼とインドネシアの架け橋ができたらと思っています。建設業という仕事は、当たり前の日常を当たり前にする仕事。蛇口をひねれば水がでることも、真っ直ぐな道路もすべてはそれをつくった人がいるからなんです。インフラがあることで、人が生活し、一つひとつ商店が増えて、街が元気になっていく。そんなやりがいに満ち溢れている仕事に、幸運にも自分は関わっている。これまで気仙沼でやってきたことを、まだ途上国であるインドネシアへと展開して、街を元気にしていきたい。そうして気仙沼とインドネシア、その二つの都市の架け橋になりたいんです」建設業という枠を超えて、事業を展開していこうとする菅原工業の目標は今、遥か向こうを見据えている。

菅原工業

人が育つフィールド。一級土木施工管理技士を筆頭に、菅原工業には有資格者が多く所属している。誰もが最初からそうだった訳ではない。面倒見のいい先輩が、一から仕事を教えてくれる。ある程度仕事ができると思うと、最初から完成するまで任せてみる。そうやって責任感を芽生えさせていく。そしてその後輩が成長し、その後に入ってきた後輩をまた育てていく。そういったいい循環がここには流れている。では、どんな人を菅原工業では求めているのか。そしてどんな人が育つのだろうか。「夢のある人がいいですね。自分はこんなことをやってみたいという想いがある人。そういう人はぐんぐん成長しますよ。仕事をただやらされていると思うのではなく、自分の目標のために仕事に取り組んでいると思ってチャレンジしてほしいですね。そのための評価は必ずします。うちの常務は30代でその役職を任せましたからね。思い切って飛び込んできてください。一緒にまちづくりをしましょう」気仙沼から世界へ。その大きな船出を支える確かな仲間がここにはいる。その挑戦にともに歩もうとする新しい乗組員にかける期待はとても大きい。

会社概要

社名 株式会社菅原工業
本社 宮城県気仙沼市赤岩迎前田132
事業内容 ● 土木工事業
● とび
● 管工事業
● 舗装工事業
● 水道施設工事業
● 運送業
設立 昭和55年7月1日
従業員数 27名
ホームページ http://sugawarakogyo.co.jp/
新卒採用募集職種 技術系
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